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2015.02.13 Friday
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    小説版への疑問(1)

    2010.08.14 Saturday 02:34
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       先日甲子園に高校野球を見に行ってきました。ひたむきな球児達のエネルギーを生で感じることによって、元気が湧いて来るのはもちろんのこと、印象的だったのは応援団の発するエネルギーがグラウンドの球児達に負けず劣らずものすごいということでした。誰しも立つ事ができない舞台である甲子園に出場するということは、もちろん地元の誇りでもあります。球児達が自分達だけでなくクラスメートやその地元の方々の夢も背負っていること。そしてその声援に背中を押されて普段よりも力を発揮し、短時間の間にとんでもない成長をとげられる理由が、生で観戦して改めてわかった気がします。とにかく見ていて心が温まるんです。点が入ったら応援団の陣取るアルプススタンド全体がお祭り騒ぎになり、点を取られればみんな揃って意気消沈してしまう。劣勢の最終回に最後の力を振り絞って声を張り上げる。これだけ同じ感情を共有して一体となることなんて、なかなかないと思います。先日のサッカーW杯などでも同じことが言えるかもしれませんが、僕は国レベルとなるとそこにまた別の感情も混じっているようであまり好きじゃありません。一方でこの高校野球に巻き込まれる感情は本当に純粋なものだと思います。この舞台が長く継承され、そして今後も末永く受け継がれて行くことを、僕は日本人として誇りにしたいと思います。

       前振りが長くなりました。お盆ということでお許しください。今回は久しぶりにオフィシャル小説について取り上げようかと思います。タイトルは「小説版への疑問 (1)」になっていますが、別に(2)を考えているわけではありません。最近僕は小説版でどうしても気になっていることがあって、それについて皆さんのご意見を賜りたいと考えている次第です。

       僕は夏になって小説版を最初から一気に読み返したくなりまして、執筆の後に時間をとって先月からひと月かけて1巻から最新12巻まで目を通しました。膨大な量でさながら大河を読んでいるような気分になりましたが、これまでの伏線の確認などもできたり、11巻で明かされた謎をふまえることによって、かなり今までと違った印象で読む事ができて楽しかったです。皆さんも夏の間に読み返してみるのはいかがですか。

       ここで今回この記事を読むにあたっての注意事項を申し上げておきます。最新12巻に関してはまだ未読の方もたくさんいらっしゃると思うのでそこは配慮して、今回12巻の内容にはほとんど踏み込みません。少しだけ触れるところもあるかもしれませんが、未読の方がガッカリするようなネタバレは一切しませんのでご安心を。しかし今回の記事の内容の問題から、11巻には思いっきり踏み込みます。つまり、11巻までの多大なネタバレを含みますので、11巻まで読了されていない方はご注意ください。11巻を読了した方というのは、イサコを操っていた声の正体がわかっている方のことをここでは指します。

       これだけ大げさに注意を促しておいて、一体何をテーマにするのかとお思いの方もいるといらっしゃるでしょう。ここで明かしておきます。僕が小説版を読んでいて最近気になって仕方ないことというのは、「小説版『電脳コイル』における生身の暴力の意味するところとは?」という問題です。

       お盆だというのになんだか血なまぐさいテーマで申し訳ありません。しかし皆さんもどこかしらで違和感を覚えていることだと思います。特に秋冬編に突入した第9巻以降、こういった描写が目につくようになっていますが、今回はこの問題について考察していきたいと思います。

       とりあえず僕の言うところの「生身の暴力シーン」とはどんな場面かというのを、具体的にあげていきたいと思います。これ、第1巻でイサコがヤサコをビンタしたとか、第10巻でハラケンがヤサコをビンタしたとか、そういうことではございません。

       まず始めに思い出されるのは第8巻。イサコが信者達に信奉されるところで、その様子を見に来た観音小の3人組が信者達に襲われるシーン。ここで小説版での魔性の女イージマーは「生の暴力で痛みつけるのよ!」みたいなことを信者達に指示しています。かなりダイレクトな表現です。指示された信者達は3人組を襲うものの心のどこかでビビってしまっており、ぐだぐだな暴力を浴びせ、見てるこっちがツラくなるというなんともいたたまれない場面でした。

       次に思い浮かぶのは初見ではかなり衝撃だった第9巻、イサコが元信者に石をぶつけられて流血するシーン。これがショックだったのは僕だけではないはずです。フミエがブチ切れて「卑怯者!」と叫びたくなる気持ちも痛いほどわかります。その後もイサコは元信者に何度か襲われかけますよね。それを助けるか見守るかでメンバー達の意見が割れ、最後にヤサコの裏切りでとうとうバラバラになってしまったのは寂しかったです。

       10巻に目立ったシーンはなかった気がするので第11巻。ここにも実は暴力的なシーンはなかったと思いますが、玉子パートで雰囲気ががらっと変わります。それは猫目を捜すうちに、メガネ流民の話がクローズアップされるようになるからです。

       ここで玉子が駆け回るフィールドは、これまでの『電脳コイル』のイメージからすればある意味で新鮮な場所です。まあ、怖いお兄さん達や中学生・高校生がたむろしていそうな歓楽街ということになるのですが、1歩間違えば路地裏暴力に出くわしそうな危険な香りがプンとする場所ですよね。僕もこんなところ1人で出歩きたくはないのですが、玉子は積極的に聞き回りにいきます。しかも話によるとメガネ流民にも(依存型)と(能力型)の2通りのパターンがあって、この2つは対立関係にあると。そんな中で(依存型)が(能力型)のメガネを奪うという、いわゆる”メガネ狩り”が頻発しているらしい。その場合の争いはほとんど生の暴力でカタをつけるという話でした。

       そして最新12巻にも、陰鬱としたイヤ〜なシーンがございますよね。特にMくんの気味の悪さが際立っておりました。しかしここではこれ以上は踏み込みまないでおきます。

       以上のように「生の暴力シーン」を列挙していきましたが、ここからがいよいよ本題です。『電脳コイル』という作品において、なぜこのようなシーンが描かれるようになったのか、ということが僕にとっては疑問なわけです。設定の違いもあるので有効な手段かどうかはわかりませんが、とりあえずアニメとの比較で考えてみましょう。

       そもそも『電脳コイル』という作品自体が、生身の暴力とは無縁なものだと僕はずっと認識していました。もちろんこれはアニメによって出来上がった先入観に他ならないわけですが、ともかくアニメにおけるテーマは”心”のやり取りだというのは疑いようのないことですよね。いくらミサイルを撃ち込まれようがビームを浴びようが、生は傷つかない。電脳戦争でも生を傷つけてはいけないというのはおそらく暗黙の了解にあったはずです。ダイチが直接イサコを痛み付けにいったのは非常に衝動的で短絡的な行動なので、あれは例外と見るべきでしょう。アニメの中ではあくまで電脳の世界でカタをつけようという気風があったように思えます。

       アニメでの大きなメッセージの1つ、電脳という手で触れられない偽物の世界でも、そこで得た感情はすべて本物である、というのがそれを象徴しています。

       そんなアニメでの唯一の生暴力のシーンは、フミエに絡んでいた第一小の3人組をダイチが柔道で投げ飛ばした場面でしょう。あのシーンにしても、その1つ前の話で子どもはみんなメガネを取り上げられてしまっていたので、カタをつけるのは生しかないという制約がありました。小説版と同じではありませんね。

       人を傷つける手段に段階があるとしたら、アニメの『電脳コイル』は言葉(いやがらせ)、電脳、そこから上はありません。電脳の世界から一線を越えたら今度は生の暴力になると思いますが、アニメではその一線を越えませんよね。ところが小説版に関しては、この一線を簡単に飛び越えてしまっています。

       そもそも小説版の魅力の1つは、アニメによって出来上がった固定観念のぶっこわしにあるというのは、僕も以前にコメント欄で書きました。それが楽しくもありショックでもあるんですよね。小説版のお兄ちゃんが最低人間なのもそのうちの1つです。しかし電脳から暴力という一線を越えるかどうかというのは、ぶっこわしとは別の問題だと思うんですよね。

       なぜ小説版の登場人物は暴力に走るのかというのを考えると、その原因はアニメとの決定的な設定の違いである「メガネの有効期限」に集約されるのだと思います。でもそんな一言で片付けるのはつまらないので、もう少し考えてみます。

       この「メガネの有効期限」については、僕も1年前にうわべだけをなぞったしょうもない考察をしています。あの時はこの設定について結構ナメていました。最近はメガネが切れてしまうと命取られるぐらいの焦燥感がひしひしと伝わってくるんですよね。そのメガネを永遠にするために生の暴力に訴えるとは、なんとも皮肉なお話です。

       もちろん小説版の暴力についても一概にまとめられない部分もあります。イサコを傷つけた信者の暴力は「メガネの有効期限」に起因するものではなくて、なんだか自己表現の1つのような気がします。先ほども言葉、電脳、暴力と段階分けをしたのですが、信者達は言葉と電脳では相手に自分の存在を残せない人達です。じゃあ天沢勇子という憎むべき存在に自分の爪痕を残すためには、それは暴力しかねえとなるわけですよね。

       仮にメガネが存在しなければ、言葉と暴力しか残りません。そうなると自己表現(自分の爪痕を相手に残すこと)ができる人とそうでない人が両極端に分かれてしまいます。リアルワールドはそんな感じですよね。そこに電脳というメソッドが加わることにより、『電脳コイル』の世界では自己表現にも無限の可能性が広がったわけです。が、自分はなんでもできると思い込みつつも、実際には信者達のように電脳でもパッとしない人もいれば、天沢勇子のように電脳で高いスキルを持っていても、現実世界ではうまく立ち回れない人もいるわけです。イサコの場合はしっかり成長していますので例に出すのはかわいそうですけどね。

       小説版ではある意味で無力な自分から逃避する手段としてメガネが存在しています。信者達の場合はイサコを憧れとしたことで、現実逃避の拠り所にしてしまっている部分もありました。イージマーがメガネに辟易しているはそこなんでしょうね。彼女は未だに謎めいたところがありますが、メガネじゃなくて生で人を支配しようとしているところがあります。彼女が「生で痛みつけるのよ」という指示を出したのは非常に示唆的です。

       話を戻しまして、メガネが切れてしまうということは、無力な現実世界の自分に引き戻されてしまうということでもあります。そうして彼らは逃げ場を失いかけ、追いつめられているからこそ暴力を発動してしまうわけなんでしょうね。これは人間の本質を突いていると思います。

       しかしこの書き方だと、今まで現実逃避していた信者が生の暴力を振るったことが成長であると僕が思っているように誤解されるかもしれませんね。それについては、もちろん自己表現として暴力を発動する人間が、そうじゃない人より偉いと思っているわけじゃありません。メガネをかけていながら暴力に訴える人というのは、メガネを通して成長できなかった人なのだろうと思います。

       結局ここでアニメと同じメガネの世界も本物論が出て来るわけです。メガネという世界に踏み込んだからには、メガネのスキルを磨いて電脳の世界で起こる様々な困難を乗り越えることこそが、本当の成長になるのです。当たり前のことを書いている気がするのですが、ヤサコとイサコがその象徴です。だからあくまでメガネを生ききろうとしているダイチやフミエ、ガチャギリ達の潔さがカッコいいのです。この潔さという観点から、暴力に訴えるヤツとそうでない人との線引きができると思います。

       ついでに特殊な立ち位置にいるイージマーについても少しだけ。彼女はイサコや信者達を手なずけられたのはメガネの力によるものではなく、あくまで生の力だと信じています。だからメガネが切れた後にあらゆるものを支配できるのは自分だと思っていますよね。この物語の人物としてはかなり先走った考え方ですが、その生の力というのがどうも暴力のようなので、結局メガネを手放せない連中と同類だと思うんです。ただ彼女の場合無力な自分の裏返しというわけではなさそうですし、実際力はあるのでしょう。しかし人を支配したいと思うその心こそが非常に独善的なので、これまで他人に相手にされてこなかった部分と自分でも他人を相手にしなかった部分があるのでしょう。彼女のことを救いようのないほんとうの”ひとり”だと言ったヤサコの気持ちもわかります。いずれにしても、この物語の中で彼女はメガネをすっ飛ばした特殊な存在であり、それはメガネで成長できなかったゆえに自分からメガネを見切ったと理由を求めることができると思います。

       長くなりましたがまとめに入ります。この物語における暴力とは何を意味するのか?というのが問題でした。色々な事項を見てきましたが、僕が考えるにそれは「メガネを通して成長できなかった証」なのだと思います。信者達にも、メガネが切れそうになって焦っている連中にも、メガネ流民にも、そしてイージマーにも共通しているのがそれだと思うんですよね。ただし信者達の場合はイサコと和解したことによって、この何人かはこの括りからはずれると思います。

       すごく偉そうな意見になってしまいますが、どんなものでも、例えば学校のクラブ活動などでも、それを通して成長できる人とそうでない人がいると僕は思います。それは技術云々ではなく心の問題です。色々な人がいるわけですからそれは仕方のないことだと思いますし、メガネもそういうことだと思うんです。

       誰しもがメガネを通して成長できません。アニメではヤサコとイサコの関係に絞ったこともあってそこが描かれなかったわけですが、この小説版ではそこが余すところなく描かれています。すごくリアルなんです。暴力はその1つの象徴として描かれているのかなと思いました。

       ですからこれも最初から意図した展開だったのでしょうね。僕もはじめのうちは暴力シーンについては違和感しか覚えなくて、この「メガネの有効期限」という設定が暴走して、『電脳コイル』のテイストを逸脱させてしまったのかなと思っていました。著者の宮村さん。とんだご無礼をお許しください。

       ということで、僕もこの記事を書きながらにこの問題について自分の中で整理をつけましたが、みなさんはどう感じられていますでしょうか。違う、これはこういう意図があるんだというご意見がございましたら、どしどしコメントください。

       それでは良いお盆を。

       

       
       

       




       

       

       
       

       

       

       

       

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      2015.02.13 Friday 02:34
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        コメント

        どうも、川島です。

        此花さんもそう感じられたように、やはりこの問題に関しては違和感を覚える方が多そうですね。僕も自分で納得できるような考察の結論を考えたのですが、これを皆さんにも共感してもらえれば幸いです。

        本論で書かなかったことですが、信彦に関しても考えてみると面白いと思います。信彦がなんであんな人間になってしまったのかは、「お兄ちゃん。哀れな人」
        と描かれた11巻で既に明らかになっていますよね。信彦ってメガネを早くに失ってしまったんですよね。それが逆に彼をメガネに執着させる原因になってしまったのですが、彼の場合メガネを遊び尽くす前にそれを失ってしまったわけで、「メガネを通した成長」云々以前の問題なんですよね。だから彼はメガネで人を支配しようと考えているのでしょう。暴力という手段にステップアップする以前の問題なのだと思います。

        此花さんのコメントでなるほどなあと思ったのは、「メガネの存在する現実」を小説版は描こうとしているというところです。それはアニメより広い視野でメガネの世界を捉えているってことですよね。コンセプト自体がそれなので、小説版はあらゆる人達を追って行く必要があり、それがこちらとしても見所になるのでしょうね。

        でもなぜに暴力に行くのかという問題は根本的に解決してないんですよね。此花さんの感じられている違和感もそこからきているのだと思います。僕の考察ありきで考えるのもなんなのですが、「メガネを通して成長できなかった証」を「生身の暴力」に結びつける必然性がないということですよね。やはり『電脳コイル』という作品である以上、それもやはり電脳の中で現出してくれれば、読者としては最も腑に落ちるのだろうと思います。

        しかし考えても答えが出そうにもないので、この辺りでこの問題については置いておきます。また皆さんで最新12巻について語り合える日を楽しみにしています。それでは。
        | 川島奏 | 2010/08/19 11:33 PM |
        こちらではご無沙汰しております、此花です。

        今回の川島さんの考察、小説版の深いところにぐっと踏み込んで居られますね。「小説版における暴力」を「メガネを通して成長できなかった証」とされているのはとても明快かつ本質的なところをついていると思います。私もこの記事を読んで、今までどうも小骨が刺さったような感じでいたところに納得がいった気がします。

        個人的な体験で申しますと、私も小説版の、特にイイジマ女史を中心としたオリジナルの展開には、最初のうちはかなり違和感を覚えました。川島さんのお書きになったとおり、『電脳コイル』本編は意識的に「生身」を排除して、あくまで「電脳」に世界観をしぼった作品でしたから。で、本編から一歩踏み出した世界を構成する時に、「生身」はいかにも飛びつきやすく、しかしであるからこそ禁忌の領域ではないかと、初めて読んだ時はそんな反発もありました。もっと言ってしまえば、「生身」抜きで完結して完成した『コイル』の作品世界への共感を、安直な方法でリジェクトされているような気がして、感情的な抵抗を感じたわけです。

        ところが、小説の巻が進むにつれて、これが変わってくるんですね。私の考えでは、小説版は「メガネでしかわからない真実」という段階から、次第に「メガネの存在する現実」を描く物語へと、主題が移ってきていると思います。いつもいうことでそろそろ聞きあきたかとも思いますが、「メガネとその世界≒信彦」から「仲間と共にある生活」に移行していくイサコの成長が、この主題を体現しています。そして、まさにそういう主題であればこそ、物語はヤサイサだけでない子供たちの「メガネの後」「メガネを離れた現実」にも及んでくるわけで、そうすると、メガネの有効期限とか、メガネを失った子供達とか、玉子のフラストレーションとか、初めのほうから織り込まれていた設定が俄然生きてくるんですよね。

        で、暴力性というテーマも、そういう大もとに含まれていた伏線に手繰られていく、はずなんですが、これについては私はいまだに違和感をぬぐい切れてはいません。ただ逆にいえば、小説版のヤサコ、イサコ、玉子、ハラケン他の面々が、それをどうやって乗り越えていくのか、それこそが私の小説版に求める大きな期待の原動力なのだと思います。

        偉そうにいろいろ書き連ねましたが、すみません、実はまだ12巻に手をつけられておりません。最近、読む時間がないストレスを買うことで紛らすという、活字インフレスパイラルが進行中でして……。12巻を読んだ途端とんでもない見当違いを悟るかもしれないのですが、ここは蛮勇をふるって、今の考えを書かせて頂いた次第です。
        | 此花耀文 | 2010/08/18 12:43 AM |

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