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2015.02.13 Friday
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    自由とは何ぞい? -イスラム国関連ニュースより-

    2015.02.13 Friday 23:22
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      閲覧頂きましてありがとうございます。

      あけましておめでとうございますをすっ飛ばして、はや2月も半ばになりました。
      この更新の安定感のなさを改善したいなと思いつつ、実行できておりません。ごめんなさい。
      毎週更新していた時代が嘘のようです。

      さて、今日は”自由”について僕の思いを書きなぐります。よろしければお付き合いください。

      これを考えるきっかけになったのは、とあるフリーのカメラマンがシリアに渡ろうとしたら、政府よりパスポートを返納するよう命じられ、報道の自由の侵害だと訴えているあのニュースです。皆さんもよくご存知だと思います。

      今回の記事の趣旨は、カメラマンの主張や政府の対応の是非を問うことではないので、そういう明快な裁きは期待しないでください。

      とりあえず双方の立場を整理しておきます。カメラマンの方は、渡航の自由は憲法に保障されているのだから、今回の政府の対応は不当、ジャーナリストとしての自分の人生を否定するものだとすら主張しています。一方の政府は、先の日本人人質事件や、イスラム国側の日本人を見つけたら今後も容赦はしないとの発言も踏まえ、今イスラム国の支配地域や周辺地域に渡航するのは危険だという判断のもと、今回の対応に至ったというところです。

      僕は政府の対応は妥当だと思います。対するカメラマンの方には良い印象は持っていません。報道の自由を主張する以外にも、なにか思惑や打算があるように思えてならないのです。

      当然、人の真意は本人にしかわかりえないので、思い込みだけで判断するつもりはありません。僕があの人に好感を抱かない理由は、これから綴っていきます。

      それでは、あのカメラマンが主張する”自由”について考えていきましょう。
      そもそも”自由”とはなんなんでしょうか。

      例えば、国という存在が無くなり、法律が消滅してしまった世界があったとしたら。人は生きるために人のモノを奪い、命をも奪い合うでしょう。そんな世界には、”自由”という概念や言葉は存在しないのではないでしょうか。

      そう考えると、”自由”とは、ある制約(枠組み)のもとで、その中であれば何をしてもいい、という状態のことではないかと思うんです。

      人は法律を守らなければなりません。なぜ法律があるのかというと、人々が好き勝手に生きていれば社会自体が成り立たなくなるからです。先ほど例に出した世界では、いつ自分の命が奪われてもおかしくありません。つまり、法を守るということは、自分自身を守ることとつながっているのです。法を犯すということは自分自身が刑罰を受けるということにもなりますから、そういう意味でも自分自身を守るということにつながります。

      さて、私たちが守らなければならないのは、法律だけではありません。自分の住んでいる自治体の条例、町内会のゴミの出し方などの取り決め、学生であれば校則、会社人であれば社則、信仰する宗教を持つ人はその戒律など。

      そして、社会で醸成された規範や常識、マナーなども人として当然守らなければなりません。守れない人は周りから信用されなくなり、距離を取られます(例えば、電車の中で平然と酒を飲んでいるおじさんの隣には座りたくありませんよね)。ところが、上記した取り決めに対して、これらははっきり明文化されておらず、人によって基準は様々です。

      そして最も大事なのは、他者もそれらを守って当然という前提があることです。”自由”はこういった幾つもの制約の中で、ごくごく小さい領域でしか存在しないものだと思います。その枠を飛び越えてしまえば、本人は"自由”のつもりでも、周りから見れば”勝手”です。

      さて、カメラマンの主張に戻ります。あの人の根拠は憲法による渡航の自由の保障です。しかし、本来憲法とは(現在の憲法の成り立ちは置いておいて)権力が暴走しないように国民が国に課した制約のはずです。その中で”自由”が保障されていると云っても、論理の矛盾はありませんが、根拠としては薄弱ではないかと。

      そして、あの人が何かと叩かれているのは、僕も含めて、常識がないように見えるからではないかと思います。”自由”を主張するなら常識の枠内でやってくれと。今のシリアに渡航するのは極めて危険で、もし人質に取られたら、人もお金も動くことになり、周りにかかる迷惑も甚大であることは明らかですから。

      しかし、この常識という制約自体が人によって違うので、一方的にあの人はおかしいとは言えないと思います。なので、自分とは合わん考えの人や、ぐらいに思っておけばいいことでしょう。多分あの人と直接関わることはないでしょうから。

      フランスの雑誌者のテロがあった際も、やたら表現の”自由”が謳われていましたが、あれも同じことだと思います。あの雑誌の”自由”は、僕は行き過ぎだと思いますが、あの人たちからすれば許容の範囲なのでしょう。だいぶ欧米的な異文化蔑視の風潮が見て取れますが、それもそれで文化の1つなのでとやかくは言いません。ただ、僕はあれでムスリムの人たちが怒って当然だと思います。テロは決して許されるものではないですが。

      長くなりましたが、まとめに入ります。僕の考える”自由”とは、幾つもの制約のもとに存在する領域の小さいもので、また他者と共有するのは非常に難しいものだということです。昔の専制政治の時代ではないのですから、ただ”自由”を声高に叫ぶのではなく、その中身を考えて訴えを起こさないと、周りからの理解も得られず孤立してしまいかねません。大事なのは、自分の置かれている状況をよく考えることだと思います。










       
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