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    『電脳コイル 春』あとがき

    2011.09.08 Thursday 23:04
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     3年前の夏。アニメ『電脳コイル』の再放送を見終わった僕は、この作品から発せられるメッセージに共鳴し、ストーリー展開に興奮し、登場人物達の成長に感動し、活力を得る一方で物語が終わってしまった寂しさに苛まれていました。

     できることなら、この続きを見てみたい。”あの事件”で成長した彼女達が手を取り合って戦う姿を渇望したのは、おそらく自分だけではなかったと思います。

     そこで思いついたのは自らの手で物語を紡ぎ出すという方法。ないものは自分で生み出すしかない。自分の欲求を自分で満たすという、自己満足的な発想から生まれたのが、この『電脳コイル 春』という作品です。
     
     このブログの開設当初に述べた通り、それをweb小説として掲載したのはひとえに完結させなければならない義務を自らに課すためです。そうして自分の物語を楽しんでくださる人に出会えることは幸運であり、もちろんそれは大変に嬉しいことでした。僕は常々、自己満足の副産物が他者の満足となることこそが理想の形だと思っています。

     まずこの小説を完結できたことで、僕は自分の中の欲求を満たすことができました。さらに、読者の皆様が楽しんでいただけたのであれば、これ以上の喜びはありません。ご感想やご指摘を寄せてくださった方々には、心より感謝しております。

     さて、物語が完結した今、改めて僕が触れておきたいのは「なぜ『春』なのか」という点です。3年前の執筆開始当初、僕は何を思いこのタイトルをつけたのか、振り返ってみたいと思います。

     しかしながら、正直に申しますと、今となってはそれも思い出せません。つまり、これといった理由よりも物語の時期設定や漠然とした『春』という言葉のイメージからつけたタイトルだということです。しかし、物語の核心に迫るタイトルというわけではなく、抽象的に物語を包括するタイトルにしたのは、この3年間の長大な執筆期間をふまえると良かったのかもしれないと思っています。

     というのも、この作品は特に深い考えやメッセージがあって書き始めたわけじゃないからです。僕が伝えようとしていることは、本当にその時々にあって変わっています。この作品を、一言で表現するというのは無理だと思います。

     でもあえて今、この作品の内容に『春』という言葉を結びつけるとしたら、このような解釈になるのではないでしょうか。

     つまり「春」とは「新生活」と同義語と捉えることができます。新しい学校、新しいクラス、社会人デビューなどなど、「春」という言葉に内包されているのは「はじまり」であり、「希望」であり、そして最大の割り合いを占めるのが「不安」です。

     そして、小説のあらすじにも書きました「出会い」「別れ」も「春」を象徴する言葉です。

     「電脳コイル」という作品のメッセージの1つは「痛みから逃げてはいけないこと」。『春』の後半で僕は、今一度これらの言葉の意味を考え、新生活への不安やそこでの出会い、そして避けられない別れを描くことを意識しました。

     本当は季節は関係なく、「自分が変わらなければならない」と意識することで訪れる様々な状況や感情を象徴する言葉こそが「春」なのだと思います。これをふまえると、アニメ『電脳コイル』にも、この言葉が当てはまることになります。つまるところ僕は、原作のメッセージを繰り返しただけなのかもしれません。

     しかし僕はそれでも良かったのかもしれないと思います。「コイル」とは輪のことであり、そのメッセージはつながっていくものだと信じているからです。なおかつ、「コイル」は螺旋状の構造をしているので、常に他の誰かにバトンは渡されていくことになると思うのです。ヤサコからイサコへ。イサコから沙織、詩織へ。このリレーこそが、僕が描きたかったことだったのだろうと思います。

     また、エピローグの最後の最後でヤサコが思ったことも、まさに「春」という言葉に象徴されますね。こちらの方も、やはり原作ファンの方なら気になるだろうと思い、自分なりの解釈で書かせていただきました。その表現が拙い故、非常に読んでいて気恥ずかしい文章になってしまいましたが、どうか、さらっと流していただければ幸いです。

     それはさておき、上述した理由から、この物語はやはりイサコの物語となりました。彼女が登場しない第1部においては、彼女も主役の1人として考えてはいましたが、第3部終盤においてはほぼメインになっています。このブログでは昔、ハラケンが主役になるだろうと書いたこともありましたが、少し彼の物語は小さくなりましたね。

     やはりこれだけ執筆に長い時間をかけてしまうと、自分の中での考え方が変わってくることがあります。ハラケンの物語などは、当初はもう少しカンナのことで苦悩するような展開を考えてはいましたが、途中からそれもどうなのかと段々思うようになり、結局はあの形で落ち着きました。

     イサコに関しては、第2部を経て愛着が湧いたというのもありましたし、彼女を中心に据えないわけにはいかないだろうという思いが強くありました。やはり、「電脳コイル」という作品を象徴するキャラであり、彼女の宿題はさらなる成長だろうと思っていましたから(彼女が僕の手によってちゃんと成長できたのかどうかは、読者の皆様のご判断に委ねたいと思います)。

     ここまで書いていればお察しされるかと思いますが、この壮大な物語は、はじめからすべての準備をしていたわけではありません。物語の核となる要素を作り込み、あとはそのチェックポイントを通ることを意識しながらも、思いついた道をドライブするというのが、この作品における執筆のスタンスです。世界観は書いているうちに段々と出来上がってくるものなので、本当に1つ1つの積み重ねです。後で自分で読み返しても、本当に自分で考えたのかと思うほどスケールの大きな話に感じることがありますが、3年も時間をかけていれば、それなりの規模になってしまうのは必然だと思います。

     それだけに綿密にストーリーを練っていない分、上述のように方針はブレまくっていますし、作中で整合性のない部分があったり、矛盾が起きたりしていると思います。1度アニメとの設定の矛盾を指摘されたことがありますが、他にも同様のことが起きているかもしれません。他にも誤字脱字などは枚挙に暇がないほどだと思います。その辺りの読み辛さに関しては、読者の皆様に重ね重ねお詫びしたいと思います。

     本当なら、1人で書いている以上間違いは仕方がないと割り切ってしまいたいのですが、それはほとんどのweb小説家の皆さんがされていることですから、言い訳はできませんね。

     また、この場で触れておきたいのはSF的要素についてです。特に第3部の中で焦点となったAIについて、僕の考えを載せておこうと思います。

     包み隠さず言いますと、この物語で取り扱ったテーマは自分の手には負えないものだったと思います。本来ならもっと掘り下げられるようなネタであり、物語に深みを与えるようなものになり得たと思いますが、下手に踏み込むと自ら迷宮の奥深くに入りこむような気がしましたし、実際そうなってしまったきらいはあります。

     そのため、この問題を巡る解釈で、作中の登場人物には妥協させてしまった感がありますし、当事者たるAIの心情描写も十分だったとは言えないと思います。しかし議論を尽くしても一朝一夕で答えの出るものではなかったのは確かです。

     この、AIと人との関わり方というのは、今後の自分の創作活動においても主たるテーマになるような気がします。僕自身もまだまだSFに対する知識は浅く、もっと多様な作品に触れて自分なりの解釈を構築する必要があると痛感しています。

     ただ、SFへの解釈や取り組み方が未熟な僕ですが、このAI観を構築するにあたって、大いに参考にした作家がいます。オーストラリアのSF作家、グレッグ・イーガンです。

     イーガンの作品はハードSFの部類に入り、理系要素がふんだんに詰め込まれています。現代にはない未来の技術がどのような論理で機能しているのか(例えば『電脳コイル』でいえば、量子回路がどのように人の意識をキャッチしているのか)を説明するSF作品はあまり多くはありませんが、このイーガンは化学物質レベル、量子力学レベルでそれを説明しようとします。生粋の文系人間である僕には、作中で何が起こっているのかさえわからない作品もあります。

     本来なら自分には縁遠い作風ではありましたが、この作家の本に出会ったのは、僕の恩師とも言うべき人から紹介していただいたからです。その方に「実は僕、SF作品を書いているんです」というお話をした時に、「じゃあこれを読んでみるといいよ」と薦められ、お借りしたのがきっかけでした。

     イーガンの取り扱うSFは実に多様で、医学、宗教、性、時空に関係するものもあります。その中にはAIを取り扱った作品もあり、僕が最も気に入っているのがそれです。

     衝撃的だったのは、『祈りの海』という短編集に収録された、「ぼくになることを」という30ページほどの作品。今でも初めて読んだあの時の興奮は忘れられません。内容は、生まれた時から脳のバックアップ用ニューロンコンピューターを用意し、自分の脳をコピーさせ、脳が衰え始める時点で「スイッチ」するのが当たり前となった社会の話。まさにエピローグで大谷記者に語らせたのはこの未来像であり、『春』という作品にも多大なる影響を与えた物語です。

     話を戻しましょう。この『春』という作品に取り組んだことによって、将来的に自分が挑みたいテーマというものが見えてきた気がします。それに、小説を書くにあたって必要なことや、自分の未熟さをこの3年でイヤというほど感じました。今は書き始めた頃とはまったく違うものが見えていますので、自分でもこの3年でそれなりに成長できたのではないかと思っております。おそらく、ようやく「書き手」としてのスタートラインに立ったというところでしょう。

     やはり僕は創作が好きです。当たり前のように毎週一定量を更新できていたのも、書くことが楽しくて仕方がなかったからだと思います。今後ももちろん、創作活動は続けていきたいと考えています。

     そういうわけで、既に次回作の構想に入っております。それを皆様にお見せできるのはいつになるかわかりませんが、またいつかその時が来た時は、何卒よろしくお願いいたします。当ブログにて、進捗状況は報告していくつもりです。

     それでは最後になりましたが、『電脳コイル 春』に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

     2011年9月8日 川島奏
     

     

     

     

     

     
     









    『電脳コイル 春』について | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |

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    2015.02.13 Friday 23:04
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      コメント

      どうも、川島です。

      次回作については時間的制約がない分、楽な気持ちで順調に進んでいます。僕としても早いうちに皆さんのお目にかけたいと思っておりますが、今回は内容を重視して執筆して参りたいと思います。

      『サクリファイス』は気に入っていただけたようで良かったです。あの主人公には、自分にも重なる部分があって僕としては気持ちが理解しやすかったです。冒頭の一文は、確かにどのように解釈すべきか難しいところですね。あの惨劇を目の当たりにして、自分の選択を悔いるというのも僕としてはわかる気がするのですが。

      さて、『図書館戦争』の感想も載せていただきありがとうございます。意外と重たいんですね。もう少し、ラノベのような内容を想像していましたが、読み応えはあるということなんですね。なにはともあれ、近いうちに1巻は読んでおこうと思います。1冊目でハマれば、シリーズ一気読みです。

      読み応えのある小説と言えば、僕は最近ハリウッド級のスケールのお話を読了したところです。それも当ブログにておいおい紹介しようと思います。

      それでは本日はこれにて失礼します。
      | 川島奏 | 2011/09/16 11:26 PM |
      こんにちは、此花です。

      「小説家になろう」でも書きましたが、次回作、楽しみにしています。
      創作にせよ仕事にせよ、ある程度時間の制約があったほうが良いものができる時と、無制約で自由にやったほうが良い時とありますが、3年間ほぼ休みなく毎週更新を行ってきた川島さんも、『春』で完全燃焼されたでしょうから、気楽な充電期間を置くと、文章の気分も新鮮になって良いのではないかと思います。私としては待ち遠しいですけどね。

      さて、話題は前々回に戻ってしまいますが、『サクリファイス』を読み終えました。これは傑作ですね。予想外のどんでん返し。「サクリファイス」という言葉に込められた、二重、三重の思い。ことに見事なのは、本作が単にミステリーとして優れているだけでなく、ロードレースというチームプレイの中での「勝利」とは一体どんな意味を持つのか、その本質を主人公が理解する過程がそのまま事件の真相解明につながっていく点です。

      ただひとつだけ気になる点といえば、冒頭「どこからやりなおせば、この結果を避けられるのだろう」との一文がありますが、この台詞を吐いた彼は後悔していたでしょうか。そういう精神を褒めるかけなすかは別問題として、私はそれが彼にとって合理的な選択の結果であり、悔いなき結末と思うのですが……。あるいは、この慨嘆は劇中描かれる事件ではなく、彼の後を走る者の将来なのかもしれませんね。

      話が二転三転して恐縮ですが、次に『図書館戦争』です。これは、「メディア良化法」なる悪法により表現の自由が脅かされ、良化部隊が「悪書」を武力で没収して回るという近未来(というかもうひとつの現代)、本とそれを読む自由を守るために武装組織化した図書館と「良化委員会」の争いを描く、一種のアンチユートピア小説です。
      主人公は武蔵野図書基地に勤める図書館防衛隊員、物語は彼女と同僚、上司たちの、恋愛あり戦争あり日常業務ありの日々を、彼女の成長とともに描いていきます。
      正編4巻+エクストラ2巻の計6巻が出ており、登場人物を取り巻く大きな物語は一応4巻で終わりますが、主人公たちひとりひとりの物語はエクストラまで読まないと終わりませんのでご注意を。

      ストーリーはけっこう重たいです。ユニークですがきなくさいタイトルに興味を惹かれ手に取るとポップなカバー、あれれと思ってぱらぱらめくれば冒頭から軽めの文章、安心して読み進めるうちに垂れこめる暗雲とシビアになっていく展開(ぽんぽん人死にが出るという意味ではないのでご安心を)、しかしあくまで軽い文章。これは決して人畜無害なベストセラーではありません。やや甘いめの設定もなきにしもあらずですが、読めばひるがえって我が身も何事か考えさせられます。

      ただ、人によっては文章のセンスが合わない場合もあるかなと思います。第1巻の前半、大体100ページくらいでクマ殺しのエピソードが出てきますが、そこまででどうもダメだという場合はすっぱり諦めたほうがいいかもしれません。私のようにそこでばっちりはまれば、後はどんどんのめりこみます。第4巻など購入してから読み終えるまで手を離れませんでした。
      お薦めかそうでないかと言われればぜひお薦めです。読んで、考えてほしいですね。

      というわけで、どうにもばらばらの長文となりましてすみませんでした。本日はこの辺で失礼します。
      | 此花耀文 | 2011/09/13 11:03 PM |
      どうも、川島です。

      応援ありがとうございました、此花さん。ようやく終わらせることができました。

      此花さんのおっしゃる通り、この『春』という作品は「電脳コイル」の雰囲気からは半分逸脱していました。かなり序盤の方から、この大人の世界なんて描いていいものかという葛藤もありました。

      しかし、どうしても自分の描きたい展開に持ち込むには大人の悪役が必要で、神崎氏などはそれなりに楽しく書くことはできましたが、違和感というものはおそらく皆さんが感じていらっしゃったでしょうね。

      そんな原作とはほど遠い空気感で物語が終わってしまいましたが、それをまたフォローしていただいてありがとうございます。そう言っていただけると、おそるおそる出した僕としても救われます。

      それにしても今思うのは、此花さんには忍びないのですが、連載が終わった解放感は素晴らしいということです。肩の荷が下りるとはまさにこのことです。

      とはいえ、小説書き病の末期症状の自分は、既に次回作の執筆にかかっています。しかし、一週間に一定量を書かなければならないという縛りがなく、自分の思うペースで何度も文章を練り直しながら書き進めるというのはとても楽しいですね。しばらくは、このお気楽な執筆生活を味わいたいと思います。

      ですので、僕にとって『春』は既に過去のことです。この作品に取り組むことによって溢れ出た反省を活かして、よりよい物語を紡ぎ出せればと思っています。

      同時に、これからは連載中の『3.00』にも集中できるかと思います。こちらの方も、皆さんに満足していただけるような作品にしていきましょう。

      それでは繰り返しになりますが、長い間『春』にお付き合いくださり、ありがとうございました。
      | 川島奏 | 2011/09/11 9:20 PM |
      こんにちは、此花です。

      『春』完結、本当にお疲れさまでした。何故だか私まで感無量の思いです。

      個人的な話をさせて頂きますが、ちょうど2年前でした、私が『電脳コイル』に出会ったのは。数年ぶりで心を根底から揺さぶられる思いがして、DVDにロマンアルバム、企画書、オフィシャル小説の当時の最新刊まで読みつくし、他に何かないかとネットを漁っていた時に、『春』を見つけたんですね。
      一読して引き込まれました。と同時に、受動的なファンであるだけでなく、自分にも「書く」ということができるものかと思い到り、拙い作品をアップするという暴挙に出たわけですが、そんな私が今あるのも川島さんという先達あってこそと言えます。

      話を『春』に戻して、最終話を読んで気がついたことがひとつあります。

      『春』は「大人」と「子供」の物語ですね。私は『電脳コイル』を「子供」の物語と思っていました。拙作に子供と、大人の皮を被った子供しか出さなかったのもそのせいです。
      子供の世界は儚いものです。大人の社会とぶつかった時、子供の信じる世界は無惨に破れてしまうかもしれません。そうなるのを見るのが辛かったから、私はあえて自作に大人を登場させませんでしたし、正直にいうと、『春』の神崎氏などには違和感を感じたこともありました。

      ですがそれは大きな誤りでしたね。本当の危機に立たされた時、神崎氏は脆くも崩れました。それはメガマスを捨てた小野先生や、自ら現実に目を瞑った進藤氏も同じです。支社長や竹下氏、ある意味細川技師もそうかもしれません。結局彼らは自ら作り出した幻であるところの社会に踊らされ、自分を見失いました。そうして幻が次々と幻に消え、最後に残ったメガマスという大看板も失われたところに残ったものこそ、子供たちの心だったんですね。子供は大人とその作った社会を超えて、またと得難いものを手に入れたのです。
      今回のブログの記事に照らせば、そういう全てが「春」なのかもしれません。子供たちは、あの最終話の「春」と出会い、新しい世界を知り、時に苦しみながら、ついにそれに打ち勝ち、または受け入れ、そして受け入れられたのでしょう。

      このラストで『春』は『電脳コイル』という作品にひとつのメッセージを残しました。
      私はそれをとてもうらやましく思いますし、しかしそれにもまして、心からの祝福を送りたいと思います。

      エピローグについてはあえて何も語りますまい。
      願わくば、もうひとつの『電脳コイル』の主人公たちにも幸多からんことを!
      | 此花耀文 | 2011/09/09 2:59 AM |

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